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豊明希望チャペル礼拝 

2021/4/18 

ヨハネの福音書 5:41~47  

「響きあう愛」  

以前、テレビで、欽ちゃんこと、コメディアンの萩本欽一が「いじめ問題」に 帯するコメントで、こんな事を言っておられて、ちょっとビックリしました。彼は、 このように言いました。「いじめられて自分のいのちを断つ子は、そのことで、自 分がここにいるよ。誰か僕に注目して!って訴えているんだと思う。」「きっと彼ら は、友だちからも無視され、いじめられた末に、先生からも親からも理解されてい ないと感じているのだと思う。」「そんな君に言いたいのは、君を見つめ、心配して いる人はたくさんいる。でももし仮に、そう感じることがあっても、天を見上げて ごらん。あなたの事を心配している神様が必ずいるんだ。神様は、貴方のことを見 ておられて、必ず埋め合わせをしようと考えていて下さる。だから、はやまっては いけない。そんなときは、上を見上げて、神様がそこにおられることを知って欲し い。」と。 

彼に信仰があるのかどうかはわかりませんが、結局、そこにたどり着くなと思 ったのです。 

何年か前に、このような統計が出ました。「貴方の宗教はなんですか?」と問う たのです。アンケートは首都圏だけでしたが、3000 人にとったところ、3%とい う数字だったというのです。これは私の考えている数字より多かった。クリスチャ ンの日本での人口は、1%に満たないと言われていますから。別の調査(全国)で も、3.6%などという数字が出ている。 

聖書に、このヨハネの福音書の 10:16「わたしにはまた、この囲いに属さないほ かの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声 に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」とありますが、これは、 異邦人のことを指すのですが、今も、この地に、神に選ばれ、教会に導かれなけれ ばならない多くの人々がいることを思うのです。 

そして、そのことに際して、思うことは、クリスチャンの真価が、この世と神 に、試されていると言うことです。この世に試されているとは、この世は、私は、 クリスチャンを求めていると思うのです。神にとは、神も、誰に、この世において 働いてもらおうかと、真のクリスチャンを私たちの中に探していると言うことです。 

今日のところで、教えられたいと願うのは、誤解を恐れずに言えば、私たちが 「真のクリスチャン」であるのかということです。 

もっとも、「真のクリスチャンとは何か」と言うことがその前に問われるのです が、クリスチャンとは、神に愛され選ばれた者であって、それは、神の側のことで あって、けっして、クリスチャンの資質そのものが問われることではないのです。 しかしそれでもあえて、このような言い方をしたのは、真のクリスチャンと言われ る人が、いるとすれば、少なくとも、その人は、自分自身が、クリスチャンとして

選ばれたにふさわしい姿であろうかと問う人だとおもうからです(到達しているか どうかより、足りなさを常に覚えて常にめざしている人・・)。 そういうい意味で、今日の箇所で、私たちが教えられたいのは、クリスチャン の問い直しです。クリスチャンである自分自身の問い直しです。私はクリスチャン なのか?どういうクリスチャンなのか?クリスチャンとはこれでいいのかという 問い直しです。 

はじめに、その答えといいましょうか、二つの問い直しとは何かをあげたいと 思います。 

(1)一つは、信仰者だと言いながら、神様の愛が心にない。神と愛の関係が 築けていないということです。これは、おもに 44 節までに書かれています(:41~44)。  (2)もう一つは、信仰者にとって、神様と交わるためのもっとも重要で、唯 一のツールというべき聖書、その読み方が間違っているという問題です。内容にい ささか踏み込めば、あなたがたは、聖書を偶像のように信じているだけであって、 聖書を読んでいない、理解していないのではないかという事です(:45~47)。  (1)まず、44 節までを、もう一度読みます。「5:41 わたしは人からの栄誉は 受けません。5:42 しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛 がないことを。5:43 わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたは わたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたは その人を受け入れます。5:44 互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉 を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。」 前回は、イエス様は、「5:41 わたしは人からの栄誉は受けません。」とおっし ゃれました。 

その上で、今日のところでは、ユダヤ人たちを指して、「あなた方は人から推 薦を受けて生きています。」と言われるのです。私たちは、人から推薦を受けたい のです。むしろ、そのために生きているのかもしれません。別の言い方をすれば、 人から認められたいということであります。もちろん、そのことそのものは、悪く はないのですが、それが、一番の目的になっていると言うことであります。しかし、 少なくとも、真のクリスチャンであるなら、 

神様からの評価、あるいは、神様から誉められることにこそ満足すべきであり ます。この優先順位を間違えると、やはり偽のクリスチャンになります。クリスチ ャンは、人からではなく、神からの愛にこそ満足を覚えている人であって、イエス 様の言い方に従えば、「神への愛」があるかないかなのです。 

そんなことは、ユダヤ人の指導者達にもあったのではないか?ある意味ではあ ったでしょう。しかし、イエス様から見ると、少なくとも、神に愛されていること より、人から愛されているかどうかをこそ、一番に気にする人のように思えたので はないでしょうか。 

「神を愛しているかどうか」という言葉は、も少し別の言い方をしたほうがい いのかもしれません。それは、私の方に愛があるのではなく、キリストの愛こそが 私の内に徹底しているということです。たとえば、私のすべての欠点、罪、それを

丸ごと受け入れて下さり、愛していて下さる、それが神の愛であり、キリストの愛 です。その愛がわかっている人だということであります。 

一つ目のことを今一度まとめます。「信仰者だと言いながら、神様の愛が心にな い。神と愛の関係が築けているかどうかということ」それが、クリスチャンがクリ スチャンであるために必要な、第一のイエス様の指摘でした。 

さて、二つ目に、真のクリスチャンとなるために欠かしてならない重要なこと、 それは、神の御言葉である、この聖書との関係が正しく築けているかということの 問題です。45 節から最後まで読みます。 

「5:45 わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなた がたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。5:46 もしも、あ なたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いた のはわたしのことなのですから。5:47 しかし、モーセが書いたものをあなたがた が信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」 

モーセという言葉が盛んに出てきますが、ここで強調されているのは、モーセ 五書であって聖書のことです。ようするに、聖書を信じている。あなたがたは、そ のつもりだ、しかし、聖書を信じているあなたがたが、私を判らないのは何故だろ う(皮肉)?聖書は、私を証ししている書であるか、私がわからないというのは、 

実は、聖書がわかっていないということなのだということです。 前回の御言葉を今一度思い出したいのです。ヨハネの福音書 5:39「あなたが たは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、 わたしについて証ししているものです。」 

特にこの問題です。聖書を読んでいて、イエス様が見えてくるような、読み方 をしているか、神とイエス様の存在に圧倒されているかという問題だということで す。 

宗教改革がなぜ始まったのか?それは、ある一人の人間が、聖書が何をいって いるのか?聖書をあらためて読み直したところから始まったのです。その人とは、 聖書学者であって、偉大な聖書の翻訳者であったルター、その人であります。私た ち、プロテスタント教会は、そこから始まったのです。聖書を本当に読んでいるか、 もう一度、初心に返って、読み直そうとしたところからプロテスタントは始まった と言うことです。そして、真のクリスチャンであろうとした。そこから始まったと いうことです。 

聖書は、道の光です。イエス様が、ここで問題にされている人たちは、当時の 聖書の民であり、聖書の学者達でさえありました。しかし、それでも・・すなわち 聖書を読んでいるが聖書を理解していないという事がおきていました。それは、何 故なのでしょう。例えば懐中電灯のことを考えてみたいのです。懐中電灯はまさに 光です。しかし光がいかにありがたくても、電灯の光を拝むようなことはしません。 

懐中電灯は進むべき道を指し示す道具なのです。懐中電灯は、見てながめるもので はなく、スイッチをしっかりとONにして、私の人生の行くべき道をしっかりと照 らして、懐中電灯の光をまっすぐ私の道に向け、道を照らすのです。もっと強調し

て言えば、私の人生の真ん中で、聖書を読み、キリストを見上げると言うことです。 聖書を正しく読むということを、おおざっぱで大胆なことを言いますが、変な 言い方ですが、とにかく日々、こまめに聖書を読むことです。強調して言えば、台 所で、寝る前に、朝起きて、電車の中で、最近なら、携帯に聖書のソフトを入れて 

おいて、事あるごとに、聖書を見ることです。今日、教えられたことに基づいて、 キリストを見させて下さいと、願いながら読めば、きっと、自(おの)ずから聖書 が教えてくれるからです。 

すなわち、生活の中で、その道の途上で、聖書を見、キリストを見ていくと言 うことです。 

横浜(川崎?)で、ペルーの牧師が来て、関東のペルーのクリスチャンが集ま った時でした。私にも出て欲しいという事で、出ました。どういうメッセージがさ れるか。それは、大変に厳しいものでした。悔い改めを迫ったのです。「あなたが たは、日本にいる。物が溢れ、便利さの中で生きている。」「あなたがたが堕落して いることを気づかねばならない!」「悔い改める人たちは、出てきなさい。」と言わ れたのです。多くの兄弟姉妹が、前に出て、牧師に祈ってもらっていました。ペル ーの貧しい田舎から出てきた人たちが多い。ペルーに遣わされていた、林宣教師と いう女性の宣教師がいますが(豊橋在住)、ペルーから帰ってきて、こういう証を したことがあります。自動販売機からジュース一本買うのに、罪悪感を感じる・・ と。何もない所から、何でもあるところにきた。私たちは、ジュース一本に罪悪感 など感じない。しかし、実際に、清貧の生活をするなかであってこそ、神が見えて くる、大切なものに気づく。そういうことがあるのではないかと思うと言われたの です。 

私たちも、正直に下向きに、その生活の中で、御言葉に聞き、キリストを見上 げなら生きていくということではないでしょうか。 

さて、今朝、私たちは、真のキリスト者であるために、二つの点で、問われた のではないでしょうか。 

(1)一つは、信仰者だと言いながら、神様の愛が心にない。神と愛の関係(個 人的な関係)が築けていないということです。 

(2)もう一つは、聖書、その読み方が間違っているという問題です。そして その答えは、キリストと神が見えるような読み方をしているか。です。 今週の歩み。この世は、実は、クリスチャンを求めていると思います。やみく もに求めているのではなく、真のクリスチャンを求めているのです。神との真の愛 の関係を築き、聖書の真理を良く理解しているクリスチャンをです。それが世にも 必要だからです。そして、言うまでもなく、神が、そんな真のクリスチャンを求め ておられるということです。神に求められ、世に求められる、地の塩、世の光とし てのクリスチャンとして、この週も歩みましょう。どう歩むのか。祈りによって神 のとの関係を築き、聖書を読むことによって、日々、キリストを明確に見させてい ただきながら歩むクリスチャンとして、この週も歩まさせていただきましょう。